修了生座談会 第2章

2. 一番つらかったこと

司会:神成ここまでは、座談会の第1段目として、5年間の成長の結果、皆さんがどういう点で一般のドクターの学生さんと比べて違いがあるか、どこに自信を持っているか、ということはわかりました。
ここから、話題を大きく変えます。先ほど皆さんも言っていたけれども、このプログラムは皆さんと一緒に走りながら、考えながらやってきました。教育システムは極めて野心的で、そのメニューもいまだかつてないようなものでした。私としては、一番の大きなハードルは副専攻修士号の取得であると考えます。最初は副専攻というのは、実はメンターのグループプロジェクト演習と表裏一体みたいなデザインだったのです。ここでやっているグループプロジェクト演習活動(メンターゼミ)のタームペーパーが、副専攻の修士論文になるようなデザインだったわけです。最初そうだったのです。
でも、それをスタートしようとしたら2つ問題点がありました。やはり専攻における教育課程というのはあくまで専攻のものなのです。専攻外の者が口出しできるものではありません。専攻外のプログラムが決めた内容で学位を下さいというようなことは、専攻に受け入れられません。基本的にそこはかなり聖域で、口出しできないというのが1つ目です。2つ目は、メンターの方々は、修士論文の指導などはしたことがないので、修士論文などは指導できないという率直な意見がありました。スタート早々において、私は頭を抱えてしまったのです。そこで皆さんの実力に期待して、1年~1年半で既存の研究科の修士号を取得してもらうことになりました。あの頃を思い出すと、早くからゼミに入ってください、その研究科の修士論文はどのぐらいのレベルでやっているか、早く自分で把握し意識して進めてください、そんなことをやって修士号がとれるように頑張るしかない、皆さんに期待するしかないという状況でした。幸いにもというか、期待している以上に副専攻で皆さん頑張ってくれました。皆さんの副専攻の指導教員から、大きく違った分野からの学生がゼミに入って、ゼミ内に新風を巻き起こしてくれたなど、コメントをいただいたときは本当にうれしかったです。1期生が続々と副専攻修士号を取得することで、MMD教育システムの運用確立に、非常に大きなブレークスルーになりました。
恐らく皆さんにとっても、5年間の中で一番大変な時期というのはもしかしたら、この副専攻修士号取得のときだったのではないかなと思うのですが、一番つらかった、大変だったのは何だったでしょうか。勿論、副専攻以外のことでも結構です。
永嶋今だと思います。
司会:神成今ですか。今と言っているのはもしかしたら、リーディングでいろいろなことをやっているがために時間がとれなくて、主専門がほかの学生さんと同じように集中して時間を費やすことができなかったということでしょうか。ある意味、このプログラムの大変なところの側面だなと思うのですけれども、振り返ってみて、どの時期が一番大変でしたか。そして、それをどう乗り越えたかというのもあわせて話してください。
でも傍から見たら、半年留学した時期だって君らはよくやっているなと思ったし、いろいろ個人差はあると思うけれども、どの時期が一番大変でしたか。

永嶋弘樹

永嶋一番大変な時期というのは、やはり今年度になると思います。リーディングプログラムに入った頃は、プログラムになれていないという大変さがあり、2年目には主専攻の修士課程と副専攻の授業の両立があり、どの年度にも大変なメニューがあったと思います。しかしそれらは、ある種、やる内容というのが具体的であり、目の前にあるのでとにかく乗り越えてきました。一方、最終年度というのは今まで数多くのことをやってきたことをどうまとめ上げていくかの年であり、それを通じてどう変わっていったかというのを改めて振り返る時期なので、頭の使い方が全く違っています。複数のメニューをこなす中で、同時にそれをまとめ上げていくというところは、一番大変だと感じています。
司会:神成ということは、自分の博士論文が大変だということだけではなくて、政策提言の課題も含めて大変だという意味ですか。
永嶋はい。主専攻の研究そのものは、もちろん大変ですが、政策提言をまとめていく過程で、政策提言であったり博士論文であったり、5年間という非常に濃く長い時間を過ごしていく中で、一体自分は何を得たのだろうかとか、どう変わっていっただろうかというのを振り返る時期になっているので大変だと感じます。
司会:神成大変というのは、時間が足りないということですか。
永嶋時間の大変さは5年間を通じて、常にありました。ただ、良くも悪くも非常に負荷が強くかかるので、どう乗り越えていくかというのは無意識に工夫をするようになりました。その結果、今こうして全員ここにいます。大変さを感じているのは、今までの具体的な個々の経験というのを、自分の中で1つのものとしてクリアにすること、頭を整理するところが大変ということです。
司会:神成わかりました。 兪君。

兪 浩洋

そうですね。やはりどこが一番大変かというように考えてみると、どの年も等しく大変だったなというように感じます。初年度はリーディング用の授業が多くあって、その中で授業をこなしつつ修士論文に向けて書く。副専攻に入ったときは全く違う環境に入るのでそこに適応すること。昨年度の留学も大変でしたが、今は博士論文で大変です。このように、どの時期も大変だったのですけれども、どのように乗り越えられたかなと考えると、一番は、同じ大変さを一緒に乗り越えた仲間の存在だったのではないかと思います。皆で切磋琢磨していく中で、余り大変さというのが重みにはならなかった気がしています。周りがみんなやる気があるので、そこに時には助けられていて、時には刺激し合える環境だったからこそ、ここまで来られたと感じております。
司会:神成やはり1人だったら無理だったかな。
そうですね。1人だとやはり厳しかったでしょう。
司会:神成長尾君。

長尾 建

長尾そうですね。一番忙しかった時期と言われたら、正直、永嶋君と同じで、今と答えたくはなってしまいます。やはりリーディングに時間を使ってきた分、同期の通常の博士課程学生と比べると、主専攻に時間を充当できないというところでの差を感じてしまうことがあります。一方、自分の持っているリーディングで学んだ広い視野などを入れることができたら、通常学生以上のものをアウトプットできるのではないかと思っています。
もう一つ忙しかった時期は、神成先生のお話にあったように、副専攻の時期が私としてはかなり大変でした。今までと多々異なる場所なので、場所はもちろん、学ぶ内容も違います。研究の仕方ももちろん違いますし、ゼミとかそういう単位の体制も違います。例えば理工の研究室だったらM1、M2、Dが揃っています。一方、私が学んだ商学研究科では、基本的には修士学生(M)はほとんどいないで、学生はB3、B4だけのような体制でした。そういういろいろな面の多様な部分に一気に触れたので、研究も忙しいし、学ぶのも忙しいしということで、忙しさにすごく追われました。一方で、本当に周りの人が助けてくれた、周りの人がいたからこそできたという部分は、すごくあると思います。副専攻の博士の学生や、学部の学生にも助けてもらえたなと思っています。その助けは研究の内容だけでなく、モチベーションとか元気をもらう機会も多々ありました。
加えて、良かったと思うのは、助けはもらうだけではなくて、自分からもギブができたかなと思います。全く新しい分野に行くので、先方から教えて貰うことばかりではないかと最初は思ったのですが、それは思い過ごしでした。例えば、学部生の研究発表を見ると何かしらのコメントは与えられますし、あとは分析手法に関しても、いろんな側面で、理系の視点からのコメントを与えることができました。すごくよかったなと思いだします。こうして、ギブアンドテイクという形で、ある意味、理工学研究科と商学研究科の架け橋のような形で、いい循環をつくらせていただけたのではないかと思います。こうした意味では、忙しい時期を乗り越えられたのは、周りの人と良い関係を築けたということが大きいと思います。
司会:神成加藤君、どうぞ。

加藤拓巳

加藤私は皆と違っていて、一番つらかったのは初年度だったのかなと思っています。リーディングに入った初年度、このプログラムで結局自分はどうなるのか、最終的にどこを目指すのか、そういうものが良くわからないもやもやとした感じでした。授業やイベントの負荷があって、これをこなして何が起きるのかというのが全然見えていなかった。そういう意味では、肉体的にもつらかったのかもしれないが、精神的にオーバーワーク的な感じだったのかなと思っています。
乗り越えたというよりかは何とか過ぎ去ったという感じだったのです。しかし変化もありました。一つ目は、出口に向かうにつれて、どういう人物像に自分はなるのか、どういうところに行くべきなのかということが明確になってきたことです。努力の方向性なども自分でよく理解できるようになってきて、精神的に落ちついてきました。
2つ目は、肉体的に強くなったと言いたいところですが、恐らく自分の中では、何か優先順位をつけて優先すべきことをやって、ちょっと優先すべきでないことはおろしてというような、そういうものをしっかりと順位づけできるようになったことです。その結果、オーバーワークから逃れられるようになったかなと思います。
従って、初年度が一番何かあたふたしていまして、それに比べると、今も大変ではあるが、落ちついてやっているというような感触があります。
司会:神成加藤君は、英語の会話力が最初の1年で急激に進歩したような印象があります。自分としてはどう思いますか。
加藤そうですね。採用面接のときに、海外メンター教員のDr. Ventzek先生がいらして、Ventzek先生は何を言っているかわからなかったときに、神成先生か山中先生が通訳をしてくれたことを今でも覚えています。そういう意味では苦手意識があったかと思っています。1年目は、うまくしゃべるというよりは、苦手意識をなくして何とか伝えるという方針で、トレーニングしてもらったと思うので、私がそこで何か飛躍的に変わったとすればそのトレーニングの成果だと思います。
司会:神成では、吉岐君。

吉岐 航

吉岐自分が一番しんどかったことで記憶に残っているのは、留学です。いくつか候補はありましたが、最終的にドイツのフライブルク大学に留学しました。行く前は、海外の大学は、オープンでグローバルな環境なのだろうなというイメージを持っていました。いざふたをあけてみると、本当に自分以外はドイツ人みたいな環境でした。本当に初めてそこで自分1人でマイノリティみたいな環境になりました。自分のこれまでの人生を振り返ってみても、自分を取り巻くコミュニティーが変わるときは、例えば小学校の卒業のときを例にとっても、全員一緒に変わるので自分だけマイノリティということはありません。留学を経験して初めて本当に自分だけ違うみたいなのを感じまして、それは非常にカルチャーショックでした。
でも、ありがたいことに、向こうの学生は一人の日本人に対し、非常に親切でした。言語については、彼らは英語がうまいのですが、母国語はドイツ語ですので、彼らがドイツ語でしゃべり始めると会話にも入れないし、疎外感も感じて、かなりつらいというか、しんどかった経験でした。

そこを乗り越えるために、少し工夫を考えました。誰かがドイツ語でしゃべり始めると本当に入れなくなってしまうので、自分が先に英語で話せば英語になりますし、そういう工夫をしました。それを通じて、自分はそんなにアクティブにしゃべるほうではないと自覚していますが、多少饒舌になったかなと思います。実際、帰ってきてから後輩に饒舌になったのではと、言われました。
司会:神成そうなんだ。

吉岐はい。そういう変化はあったかなと思いました。以上です。
司会:神成では、段君。

段 牧

私も留学が大変でした。肉体的にはつらくはなかったですが、精神的にたたきのめされました。留学先は、アメリカのスタンフォード大学で、米国でもトップクラスの大学です。向こうにいる学生も本当にレベルが高くて、特に私自身の専門である地震工学の研究所だったので、本当にみんな地震工学に関する専門性とかというのは物すごいものがありました。一方、それ以上に大変感銘を受けたことがあります。私と大変仲よくなったポスドクの人が、自分の実績や研究成果をどんどん公表するのですが、ものすごく丁寧につくり上げて、誰が見てもわかりやすいような感じの成果物を作るのです。それが誰にやれと言われたわけではなくて、全部自発的なのです。自分の仕事の成果を世の中に還元したい、もっと広めていきたいという理由で、成果物を作っていた。
どこにそんな時間があるのだろうと思って本人に聞いたら、物すごい時間、勉強して、物すごい時間研究して、物すごい時間世に広めるという活動をしている。そこで自分は本当にまだまだなのだなというのを感じました。もちろん、それで刺激を受け、自分の勉強の量などすごく増えたし、もっと努力せねばということを自分自身感じました。一方、1つ救われたというか、私も対等な立場でやれることがありました。それは、副専攻で商学研究科で研究していたということが、結構大きく評価されました。向こうの人は専門性が高いですが、1つのことをどんどん突き進めるやり方です。商学研究科という異分野の専門性を持って私が話すことで、対等な立場で、時にはこちらの意見を本当に参考にして話を聞いてくれました。このような意味では、打ちのめされたと同時に、貢献できた部分がある。ダブルメジャーやっておいてよかったし、これからももっといろいろなことを勉強していきたいなと思うきっかけになりました。
司会:神成段君はそれ以外にもトルコのイスタンブールなど、いろいろなところに行っている。やはりスタンフォードは違うという感じですか。
そうですね。イスタンブールは、T.I.M.E. Associationのサマースクールでイスタンブール工科大学に行きました。あのときは自分も修士でしたが、他の参加者もほとんど修士だったかなと思います。同世代の人が多く、未知の題材に対して皆で調べて一緒に一から、ゼロからつくり上げていくというようなプロジェクトでした。2週間程度だったので、参加者の能力みたいなものは深くは見られなかったのですけれども、それと比べてもスタンフォードにいるとき、私の身近にいた人はすごく能力が高い人で、そこは結構衝撃を受けたというか、すごいなと感じました。
司会:神成では、安藤君。

安藤大佑

安藤一番つらかったことですね。私は、忙しいことはそんなに苦ではなく、むしろ忙しい自分が好きみたいなところがあるので、余り苦ではなかった。でも、その中で、ちょっと嫌だなというか苦しいなと思ったことが2回ぐらいありました。1つ目は、副専攻に進学する頃です。主専攻の研究室には、同じ修士の同期がいたのですが、その内ドクターに進む学生は私一人でした。更に、副専攻として商学研究科という別の組織に行くことで、かなり人間関係が限られました。それこそ、リーディングのこのメンバーぐらいにしか会わない。商学研究科では、研究室みたいなコミュニティーはなく、ゼミのときに大学院生が集まってディスカッションする程度で、基本的には自分自身で全て進めていく方式でした。そういった環境変化において、人間関係の希薄化が進んだことにより、いろいろな人と話したり、お酒を飲んだりしてストレスを発散することが少なくなってしまったことです。それがある意味苦しかったかなという気はします。それでも、このリーディングの場合は同期がいますので、本当の文系の学生みたいに全く一人になるということはなかったので、非常によかったなと感じています。
2つ目に、すごく苦しかったのは、これも実は副専攻のときなのです。修士論文の研究のために、私はアンケート調査を実施しました。そのアンケート調査のお願いが大変でした。主専攻のコンピューターサイエンスは、コンピューターに向き合ってプログラムをつくって動かして計測するという作業で、1人で完結する形なのです。一方、アンケート調査の方は、メールを打ったり、実際に足を運んでお願いしたりとか、そこの関係の調整をとることが必要になります。そこで今までになかった経験をしました。先方から、文句もものすごくありましたし、こんなことはやらないとか、迷惑だからやめてくれとか、何も聞いてくれずに端から否定されて門前払いを受けるという経験もし、最初は非常にそこが精神的にきつかった。ただ、その場面に至ってはやるしかない、やらなければ修士号がとれないという1点があったので、そこは頑張って乗り切りました。なるべくなら、できればああいうワークは余りしたくないというのが、正直なところです。でも、そういったものを経験できたというものは非常に大きかったなと感じています。
司会:神成なるほどね。では、坂本君。

坂本正樹

坂本つらかったと言えばいつもつらかったですし、打ちのめされているというのは毎日打ちのめされていた感じなのです。けれども、1つ挙げると、4年目、去年、ドクターに戻ってくるときにある意味、浦島太郎現象ではないのですけれども、ちょっとそんなふうになってしまった。それはリーディング3年目に、副専攻で一時自分のホームグラウンドの法学を離れて理工に進みました。いろいろな人からよく言われるのですけれども、文系だから理系の勉強は大変だったのではないかと聞かれます。実はそれは全然そんなことはなくて、むしろ私は理系の勉強はすごく楽しくて、逆に言うと楽し過ぎてのめり込んでしまったところがありました。もちろん3年目においても、主専攻の勉強はゼミも出ていたし、主専攻の勉強というのは研究も続けてはいたのですけれども、理工の研究がすごく楽しくてのめり込んでしまって、そちらにすごい力を入れ過ぎてしまったのです。それで理工を終わってドクターを始めようというときに、ちょっとぽかんとしてしまったみたいなことがありました。
何をやればいいのかわからないというほど、ぽかんとしてしまった。それはある意味、教育体制の違いとかもちろんあると思うのですが、先ほど安藤君なども触れていたように、理工における研究の進め方、教授とのコミュニケーションの頻度などは、三田における文系の研究科の進め方や時間のスパンと全然違っている。理工内でも分野により、いろいろあると思うのですけれども、文系と理系で研究指導システムが大きく異なる。こうしたリーディング3年目における副専攻進学で、1年間、主専攻を離れるというときの影響、研究指導体制の違いにより、4年目に私はある意味、浦島太郎になってしまった。リーディング4年目には留学の準備などもする必要がありますが、ちょっとぼうっとなってしまった点は反省しています。その意味で、副専攻から主専攻に戻る際の、主専攻への円滑な復帰というのが、課題かなと思いました。
司会:神成では、山本さん。

山本優理

山本いつがつらいかというと、今が一番つらいです。これは全部私が悪いのですけれども、性格的なこととかいろいろなファクターがあるのですけれども、とにかく博士課程修了要件を満たすのがつらい。その中で、一番キーになってくるのがジャーナルだと思うのです。ジャーナルを通して自分の研究を外にアウトプットする大切さというのを、学部生とか修士のときに実は余り重みを置いていなくて、そんなに大切なことだと思っていなかった。そのつけが、博士課程でやってきた。論文書きは慣れてなかったので、先送りに回した結果、今が一番つらいというのが、自分なりの反省です。
あえてもう一つ言うなら、皆さん知っているとおり1年目が体力的にはつらかったかなと思います。土曜日の演習のために、鶴岡から毎週、夜行バスで日吉に通いました。この夜行バスで通うことがつらかったのではなくて、自分の居場所をつくるのに精いっぱいだったというところが大きかったと思います。いろんなハンディキャップはありましたが、やはりその中で自分が頑張らないとみんなに置いていかれるし、こちらを頑張らないと成果も出ないみたいなところがあって、そのやりくりが一番大変だった気がします。